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  音楽、時間、演出
  指導者とは?
  「情操教育」という前に…。(執筆:斎藤美明)
  CA演出家として~仕事と指針(執筆:斎藤美明)
  メーリングリストと情報共有(執筆:斎藤美明)


生きる!

とあるコンサートの舞台監督を請け負ったときのこと。
第一部が終わって休憩時間に入った。
ストップウォッチをまわして休憩時間15分のカウントをはじめる。
ロビーから制作さんが舞台袖へ駆け込んでくる。
「目の前の駅で人身事故だ」
この会場はビルの6階に位置していて、あたりに高い建物もなく駅周辺が一望できる。廊下に出ると、一面のガラス張りから駅の様子が見れる。
その事故が起こったと思われる箇所は、ホームの端のよう。
乗客がその周辺に近づけないようにロープが張られている。
そして、そこから先の陰惨だろう風景を隠すようにブルーシートを壁にしている。
ホームにいる乗客も何が起こったのかと、そのロープの先の光景を覗こうとしているように見える。駅から少し離れた立体歩道橋の上からも駅の様子を見ようと野次馬が立ち居並んでホームのほうへかぶりついて見ている。
そんな様子さえも一望できる廊下には、コンサートに来たお客さんもずらり並んで様子を見ている。
何を思うか、のんびりと眺めるおじさんもいれば、様子を見て、自分の子供をそそくさと席へうながすおばさんもいる。
ここから見る光景は、ロープの先の隠された場所さえも見渡せてしまう。
二十名前後の警察官や鉄道職員、救急隊員が作業しているのが見える。

自分は予定通り第二部開始の5分前に1ベルを鳴らす。
ポツリポツリとお客さんは席へ戻っていく。
しかし、事の成り行きを気にして後ろ髪ひかれるようでなかなか席へと戻らない。
結局、1ベルが鳴ってから、5分以上の時間を待って第二部開始の合図を送る。
もちろんコンサートのメンバーには、そんな事件があったことは告げなかった。

そして、第二部が始まる。
なんの因縁であろうか。
第二部のオープニングを飾る曲のタイトルは「生きる」であった。

このタイトルを改めて確認した瞬間、泣き叫びたい衝動に駆られた。
生きる!
生きることを訴える、その曲が歌われているこの演奏会のすぐ傍では、生きることを放棄した死というものが眼前に横たわる。
生と死の同居。
この現実。
生を訴えるもの。生を放棄するもの。

―今しばらく筆をとどめて考えたが、この胸を締め付けるものを言葉に書き起こすことは出来なかった。稚拙な筆力。失念。―

しかし、今思い出すだけでも胸が締め付けられ、涙もこぼれようとする。
目の当たりにしたものは、この大きな世界の一部でしかなく、今この瞬間もそういったことは起こり続けている。
それでも、僕らは生きていることを訴え続ける。
ふと思った。
「生きろ。そなたは美しい」
というセリフが宮崎監督の映画に出てくる。
この意味をボクは捉え違えていたのかも。
生きること、生きようとする(あなたの)ことが美しく尊いといっていたのかもしれない。
CAで見せて行きたいのは、現在進行形で「生きる」が行われる姿だ。
その「生きる」姿をどう見ていただくか。
今この瞬間に感じている「生きる」をどう伝えるか。

次回公演でもお客さんと、そしてメンバーみんなとそのことを共有する時間に彩り、いつの日にかは多くの人々とそれが分かち合えるように続けていきたい。

と、演出家斎藤は、かく思う。

※追記
文中、「生きることを放棄した」という発言を書いたが、事件の真相を追跡調査をしたわけではないので、実際には自殺というようなものでなく事故かもなのしれない。
憶測でものを語るべきではないことなので、そのことをここへ書きとどめておく。
文中では、その瞬間に自分の感じたことを伝えたいという思いから憶測ながら決めつけるような形で書かせていただいてる。
改めて、事件に関わられた皆様の尽力に敬意を示し、当事者の方のご冥福をお祈りしたいと思う。

普通からの脱出

大学時代の卒業論文のテーマは「非日常性空間」というものであった。
大学4年に提出されたこの題目は、5年をのんびりと過ごした挙句、いよいよ6年生になって、やっと向かいあった。
まずは、「空間」とは何かを定義すべく図書館に篭もった。
といっても、提出の一月前であったので、篭もる期間もなく困ることとなる。
「空間論」関係の書物は、その定義に見たこともない数式が羅列されるばかりなのである。加えて言えば、空間論をやろうとすると時間論もあわせてやらないと中途半端になってしまうことも分かった。
焦る自分は、「日常」の定義に入った。
もちろん、これまた難しいものであった。
何をもって日常とするか?
明確な定義をできることもなく、詭弁を弄して、「舞台論」にすりかえて卒論を書くことで卒業単位を得た。ただし、自分の卒論担当主査は「卒業したいのならば及第点を与えるが…」という苦い評価をくだしたのだが・・・。

とにかく、「日常」やら普通やら普遍を定義することはきわめて難しい。
時代背景から含めての環境要因や、個体ごとの差異など考慮することは無限にあり、ある側面に特化したとしても、その結論をつけることは容易いことではない。

その昔、CAにおいて「普通」に関するアンケートを行った。
CAのステージでは、全パフォーマーが、演奏・ダンス・フラッグ・演技と様々な表現手段を使う。メンバーそれぞれのジャンルによって得手不得手はあるが、舞台でショウとしてみせていくには、「オール5」とまでいかなくとも「オール3」以上の技術力は取る必要があるだろう、と考えた。
評価「3」つまり「真ん中」「普通」というのはどのくらいのレベルを指すと考えられているのか?
もちろん、このアンケート内容は「抽象的」すぎるし、「絶対的普通」を考える事は困難であるといえた。
しかし、相対評価であれ、何らかの形で「普通」を考察することは内省するきっかけになったとも言えるであろう。
このアンケートで得る十人十色の回答は、平均値を取るためというより、各メンバーのそれぞれの技術向上に対する欲求の度合いを知ることとなる。
例えば、フラッグの技術力の普通とは?で「100回投げて50回取れれば普通」に思う人もいれば、「100回全てとらなければ普通ではない」と思う人もいるだろう。
また、普通基準で「悪く目立たない」=「全体の中で目立たなければ普通」と書けてしまえば、私は表現者としてひどく消極的な姿勢に感じられてしまう。
「普通」アンケートは、CAが上達するためのスタート地点に立つ基準であったといえる。
なるべく具体的に「普通」を書き出した「普通」をもとに、自己分析をきちんとしたうえで「何をすべきか」自分の目標を定めることが課題になったことは間違いない。
そうしたうえで、練習してれば必ず上手くなるはずだし、上手くならなければ周囲の責任であろう。
ただ人間の能力は不公平にできているため、他人と同等の練習しても効果を得ない場合がある。
そうであるならば、周りの人以上に練習すればよい。
それくらいをかけて作品に臨んでいくかどうかは、その人の心意気だとも思うし、本当に全力を尽くした上で、お客さんが作品を満足しなかったならば、それは脚本やら演出の責任である。

そんなことを考えながら、いまある「普通」から脱出を試みる。
脱出して、それが「普通」になってくると、また脱出を試みていかなければならないのだが、それが大切なのだろう。

舞台の原点

本公演「デパーチュア」のフライヤー裏面の代表コメントです。
字数の関係ですごいカットしたのですが、原文となります。

今日は昼過ぎから雨が降りまして、ちょっと喫茶店によって雨宿りをしました。
止まない雨に軽く苛立ちを感じながら、結局は雨の中、電車へと急ぎます。
自分は好んで地下鉄を使います。
何故でしょうかね?なんとなく景色が見えない分落ち着くからなのか?
とにかく、最寄の駅に着いたころには雨が上がっていました。
時刻は夕方。
それは昔、衛星テレビでやっていた「ボブの絵画教室」の中で描かれるくらいの絵画のような光景でした。

筆舌しがたいのですが、描写しましょう。
雨は上がり、雲はまだ空に立ち込めているものの、太陽は雲を照らし、オレンジに輝いてます。
そして、その雲海の、ところどころの切れ間から強い太陽の光が差し込んでいます。
雨が上がったからでしょうか。空気は澄み渡り光の筋までもが見えそうでした。
空の低いところでは、薄っすらとした雲が凄いスピードで風に流れていきます。
あちこちの樹木や雨どいから水の落ちる音が伝わってきます。
交差点や人々の喧騒も終わった雨を踏む音を交えて明るく鳴り響いているように聞こえます。
ビルとビルの合間の広小路から、しばし足を止めて見入ってしまいました。
「自然って素晴らしい!」なんていうチープなコピーライトしか思いつかないのだけれども、そんなコピーが入っていていても許されるような光景でした。
きっと詩人たちならばその素晴らしさを言葉で表現したでしょう。
画家たちなら筆を持って、舞踏家たちならばその身を使って、そして音楽家たちならば音を持って。
そう考えていったとき、改めて何を舞台で伝えたいのかということにつながって行きます。

もう今から5年位前の話になります。
「観客をHAPPYにする舞台を創る!」ということを斎藤は某雑誌のインタビューにて言ってました。
その志は今も変わらず…なのですが、具体的にはどういうことかは常に試行錯誤の繰り返しです。
自分が描いていきたいなと思うのは、今日出会った素晴らしい光景を伝えていくというよりは、その光景を見て感動してしまった自分について。
まぁ、「自分」って言うよりは、そうやって感動しちゃうような「人間」。
多分、ちょっと立ち止まればそんなふうに感じる人々はたくさんいるし、共有できる感覚だなって思います。
「ぼくらはみんな生きている!」
口に出すのは恥ずかしいかもしれないけれど、これを感じることができれば身体に力がみなぎってきます。
「観客をHAPPYにする舞台を創る!」ということを、今では「生命感を伝える」ということで実現させようと、取り組んでいます。

いま皆さんがやっている仕事は、それをすることで何かを伝えているんですよね。
志があり、それに取り組む。
自分にとっては、上に書いたことが仕事であり、私の舞台をやる原点なのです。

※「ボブの絵画教室」について
DVDが出ているようです。欲しいなぁ~。
本当に素晴らしい番組でした。

音楽、時間、演出

アメリカの音楽家ジョンケージ氏の作品には「4分22秒」という作品があります。
どのような作品かといえば、4分22秒の間、演奏者は楽器を前に「休符」を演奏しつづけます。
初演はピアノで演奏されたそうで、奏者は鍵盤を前に演奏?を披露したそうです。
どうやらオーケストラの演奏もあるようです。
前衛音楽の先駆けでもあり、「音楽として認められるか」などという議論もありますが、この楽曲で行われた「音楽」に対する重要な試みは、音楽家のみならず哲学者たちにも影響を与えました。

「音楽」とはどういった芸術かといえば、「ある定められた時間で、意図的に、主に聴覚に対して働きかける行為」と言って差し支えないでしょう。(「ある定められた」と書いたのは、作品の長さが有限であるからです。)
そういえば英語では「拍子」のことを、「time」といいますね。
音楽と時間が密接に関係あるという認識がもたれているという、よい例だと思います。
「意図的に」と書きましたが、ジョンケージ氏の作品は「意図的に無音という音を聞かせた」と解釈できるので、僕は彼が創作した作品を音楽と考えるのが妥当だという認識をしています。
彼は無音な会場の中に、偶発的に生まれた咳払いや衣擦れの音ですら、彼の創造した音楽の求めるところだとしています。
空間論や時間論などは高度な数式を用いられて論ぜらており、書き尽くすことの難しい学問ですが、本稿で、この話題については、「音楽と時間の経過の関わり方」についてのみ思うところを触れるにとどめさせていただきます。

その音楽が、どんな時間を経過するか?
これはCAでステージを演出・構成を考える際にも、よくよく考えていきます。
CAというパレットの絵の具はたくさんの種類の色があります。
それらを用いて、時間をどう彩っていくか。
どうしたら曲の時間の経過の仕方を効果的に見せることができるか。

テンポが速い曲でも、時間の流れがゆっくりな曲はありますし、テンポがゆっくりでも時間感覚としてはスピード感をつけたい曲もある。
例えば、速い曲に乗せて、ゆったりとしたダンスなどをさせたりすると、不思議と広がりが出る。
ユーロビートの曲に合わせて、日本舞踊などするシーンをつくったら、そういった効果も生まれるでしょう。
もちろん所作だけでなく、CAならばフラッグや衣装などの物理的なものも作品の流れる時間を彩ることができるでしょう。

時間を作る、ということでリズムセクションは大きな役割を担います。
演出としてCAのパーカッションはこんな感じであってほしいな、ということで「CAパーカッショナリティ」と題して指針を出したのですが、二年前に出して以来、現在でも、その考えは変わることなく、パーカッションセクションへの注文出すときの自分の原点ともなっています。
パーカッショニストにも二種類いると思います。
ひとつは「時間を支配するパーカッショニスト」。もうひとつは「時間を彩るパーカッショニスト」です。
話の流れの通りなのですが、CAでは後者の「時間を彩るパーカッショニスト」を目標にして稽古に取り組んでいくよう考えています。(「時間を支配する」というと、僕はマーチングのバッテリーセクションやドラマーを連想させますね。)
「時間を彩る」というのは、特には音色へのこだわりについての言及となります。
前回の公演で私が提案したのは「チャイナシンバルをハイハットトップで使用する」ということでした。
なぜこれが出たかというと、とある民謡ロックバンドのドラマーがその手法をやっていて、それが民族調・民謡調の音楽にも、なかなかしっくりいき、味のある作り方だなと思ったからです。もちろん、CAでやるにあたっては、そのドラマーの方が作り出す音とは、また違ってCAのサウンドに合うようにシンバルを選んでいます。

メンバーひとりひとりが作る色をどのように遣って時間を彩るかを試行錯誤するうちに、作品が出来上がっていきます。それがCA演出の楽しさであり醍醐味なのでしょう。

指導者とは?

今回は指導することについて。

経歴にも書いてあるので、改めて書いておくと、大学在学中は応援部というサークルにいた。

応援部というお固い組織にいて、あらゆる決まりごとを斜めに見る(不良な)新人時代があった。揚げ足を取るがために応援部史を徹底的に読んでいた。
なんとか大学2年にあがり人からモノを教わるだけでなく、新人にモノを教えるという位置にたった。
合理的にモノを教えることが難しかった。
神宮球場で遠くに見える先輩方に絶叫しながら挨拶。
駆けていって腕章を渡す。
腕章を渡す向きも決められている。
相手に腕章のW(早稲田のイニシャル)が見えるように両手で渡す。
けれど2年生を通じて、ひとつのキーワードで見えてくることがあった。
それは全て、「相手のことを思う」ということ。
「絶叫する」ことが重要なわけではなくて、遠くにいる相手に思いを伝えるために声を張り上げなければならなかっただろうとか、腕章も気持ちよく相手が受け取れるように向きを考えて渡しているだけである。(今、大学を出てみれば、ものの渡し方は一般的な作法で当たり前な話なのだが)
それが最初にはじめられたときには、きっと考えられていただろう「相手のことを思う」という行為が、長い月日を経て、結果だけを「ルール」として伝えられる。人によっては頭ごなしに、「こうあるべきだ」と伝えられたこともあったであろう。

さらに責任をもつ立場の3年生になって、全責任を負わなければならない4年生になることを踏まえて、1・2年生をとりまとめていく。
この時期についた「新人監督補佐」という役職が、今の自分に大きく影響していると思う。
肩書きがついて指導する側の人間になったのは初めてであった。
応援部の右も左もわからない新人たちに、ここがどんな場所かを教えていく。
時に理を持ち、時に理不尽に。
世の中、理屈で割り切れる話ばかりだけでない。
そんなことはどんなひとでも頭で分かっているが体で分かっちゃいない。(注:体罰とはちがいますよ)
どうしたら実感させてあげることができるのか。
何がモチベーションをあげるのか。

3年で考えたことが運営学年のドラムメジャーの基本方針となった。
スタッフのアシスタントである3年生には12のルールを配った。
そのうちのひとつ。
《人を「たたきつける」ではなく「たきつける」》
人を「たきつける」方法。
一文字増えると「たたきつける」になってしまうが、双方の関係はそれくらい紙一重だ。
指導者はこうあるべきだという形はないと思うが、ただ、その根本には「相手を思うこと」があり、だからこそ「たきつける」ためにどうしたらいいかを考えるというスタンスはもつべきだと考える。
「たたきつける」ことで可能性を奪うのではなく、「たきつける」ことで可能性を育む。

現在では、演出家と言う立場にあり、よく岐路に立たされる。
あるメンバーを活かし育てるために、自分のやりたいことに制限をかける。
自分のやりたいことを通すために、ある人の育てる機会をなくす。
「演出家なんだから、やりたいことやればいいんじゃないの?」
学生時代と違って、お客様に喜んでいただくことが一番としている団体でもあるから最終的な判断がメンバー個人に対して厳しい結果になることもある。
それでもなお闘志を燃やし続けられるプレイヤーに育てるためにはどうしたらいいか。
人は使わないと(起用しないと)育たない。それもまた真実。
そのバランス感覚を研いでいくことが、指導者を育てることにもなるのだろう。

「情操教育」という前に…。(執筆:斎藤美明)

情操教育(じょうそうきょういく) 「暗記偏重の知識の教育、数学、理科、社会に対して、感情や情緒を育み、創造的で、個性的なこころの働きを豊かにするための教育、道徳的な意識や価値観を養うための教育」 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

とある仕事で、学校の施設を稽古場として借りているダンスカンパニーの稽古に伺った。そこは、広さで言えば8m×20mくらいの空間で、高さはあまりないのだが、かなり広い。きっとそこでは「全校集会」的なものや「お遊戯」などが繰り広げられているに違いない。ピアノがあり、音響設備もラックシステムで置いてある。なかなか、いい場所で稽古をしていると思ったのだが、大変にがっかりしたことがあった。

それは、この音響システムに端を発したことであった。

システムラックに収まっているこの一品。
音を出してみて気がついたのだが、グライコ(グラフィックイコライザー)がついていない。グライコとは、いくつかの周波数帯域ごとに分かれている「つまみ」を調整することによって、増幅させる周波数帯を変化させる。そうすることで音質をコントロールすることができるという装置。
僕はあまり音響に詳しくないが、ここに置いてあるシステムのバランス設定は、(たぶん)低音域と高音域を極端にカットしている。イメージで言えば、「布で口をふさがれた声」というかんじ。
なぜこういう設定にしているのか理由の推測は容易。
一番の理由は、「この場所が図書館に隣接している」から。
スピーカーはきちんとしたメーカーを使っているのに、音の臨場感が全くない。色彩感もない。体を震わせる空気の振動もなければ、心を震わすビート感もない。
正直、この音を聞いて怒りすら感じられたし、失望もした。

なぜかと言えば、子供たちはここで集会なりお遊戯なりしているとき、大人たちはあんな音を流しているんだと想像したから。このことが想像するだけでも本当に不愉快。本当に。
こんな音を「音」として聞かせることが子供にとっていいのか?
いい音やいい音楽は「音楽室」だけで聞かせていればいいのか?
特に教育の現場ならば、音楽教室とか芸術鑑賞会とかやる以前に、日々ふれるものに注意を払わないといけないのではないか?
教育論などに関しては門外漢であるが、小学校や中学校で吹奏楽を教えている者としても「これが教育なのか!?」と残念に感じる。
ただでさえ「リアル」が喪失されている、この社会。
こんな不自然な音を聞かせ続けたら、どんな人間になってしまうのか?
私は正直、その音を聞き続けるのは気持ち悪くてしょうがなかった。

けれども、それをずっと聞いて育っている子供たちは、気持ち悪く思わなくなるのだろうか?
香辛料の効いた食べ物を食べ続けると味覚が麻痺してくる。
味の変化のない食事を続けると味覚は鈍化してくる。
聴覚・視覚も同様だろう。
何か「いいもの」を観たり聴いたりすることは、人間の感覚を鋭敏にするものであり、日々の「生命感」を充実させることにつながるであろう。

今日、仕事の行きすがらカラスの鳴き声が聞こえてきたときに思った。
あの学校の「音」でモーツァルトを聞くくらいなら、ビルの谷間に響くカラスの声を聞くほうが素晴らしいと。

失われつつあるリアル。
違う。
「薄まりつつあるリアル」に訂正しよう。
先達のものはキチッとリアルを提示しようじゃありませんか。
そのことが「情操教育」の前に必要なことだと私は考える。

CA演出家として~仕事と指針(執筆:斎藤美明)

えんしゅつ (1)演劇・映画などで、脚本・シナリオに基づき俳優の演技・舞台装置・照明・音楽・音響効果などを統合して一つの作品を作ること。 「創作劇を―する」 (2)式や催し事などを盛り上げるために、進行や内容に工夫を加えること。 「開会式の―」 (出典:三省堂「大辞林 第二版」)

団体ごとに演出家さんの役割は違ってくると思います。
マーチング団体であれば、「プログラムディレクター」とか「コーディネイター」とか名前がついているのでしょうか。
(CAでは、斎藤が「マーチングはミュージカルだ!」という志を持って、なぜかミュージカル学校にいた時期があり、その影響もあるのでしょうけれど「演出」と呼んでいます。まぁ、普通舞台一般では「演出」の方が通りがいいでしょうけど。)
「ディレクション(=方向)を決める人」がディレクターなんですよね。
CAでの演出家の仕事は、まぁ色々あるんですけど、複数名で作品を作り上げる作業になるので、一番重要な仕事は「舵取り」になります。つまりは船長さんですね。
作品という船が大海に漕ぎ出して、どこへいたるのか?
羅針盤をみながら、クルーに指示を出していきます。
舞台製作を活動の中心にすえているCAですが、舞台ひとつ作るにも演出はじめ作曲・編曲・ダンス振付・ガード振付・舞台監督・大道具・小道具・デザイナー・衣装・メイク・ヘアメイク・照明・音響と様々なスタッフの連携が必要になり、それに加えて制作サイドのスタッフたちとの連携も必要になります。
彼らとの共同作業を経て、公演を行います。
きっと「ブラスト!」さんの公演チームもこんな感じでしょう。(ただ彼らの場合は、さらにチーム分けが細かいはず。じゃないとあれだけのものはまわせませんから。チームドクターとかもいらっしゃるんでしょうね・・・羨ましい)

さて、練習においての演出家は何をしているか?
作品を完成させるために、練習進行の取り仕切りを行い、メンバーがどんな方向性で技術を伸ばしてゆこうか導いてゆく。作品を作るうえでは、自分の描いたコンセプトを保持しつつも、他の舞台スタッフやメンバーの意見で表現するに当たって最善の手段を選んでいく。(ガードについてだったら、自分のイメージが漠然としていても、ガードスタッフとのやり取りで具現化させることができる)
もちろん、行き詰まり初期のコンセプトに変更が加えられる場合もあるが、そんなやり取りを経てCAでの公演が成り立ってゆくのです。

CAやってて、普通の劇団さんと違うなぁと思っているのは、演出家が絶対権力者ではないこと。確かに最終決定権を持ってはいるが、それを振りかざしたりはしない。灰皿投げつけたりもしない。(もうあまりみませんね、そういう演出家さんは・・・あ、僕も説教はしますよ笑)
演出家「斎藤」として心がけていることは、まずスタッフを頼ること。そして、メンバーのいい部分を探してやること。
スタッフに頼るのは、自分の成し遂げられない部分に到達させる可能性が生まれるから。メンバーのいい部分を探すことは、舞台上での個人の輝きにつながるから。個人の輝きは集まって、キラキラと生命の輝き(=生命感)として感じられるのです。
そして、自分の演出家としての職責は、メンバーの輝きを引き出してあげて「生命感」を感じるステージを創作していくことだと思っています。(一部抜粋して読むと何かの宗教団体のようだ)

また、CAのステージでは、お客様に「生命」であったり「人生」であったり「日常生活」を味わって、改めて考える機会になるといいなぁと思っています。
悲惨なニュースが最近続きますが、どこまで自分ごととして実感できるか?
仮にTVの向こうのニュースに憤ったとしても、数日のうちには忘れてしまうじゃないですか。
それでもいいんだと思います。それでいいと思います。
そうじゃないと生きることに疲れてしまうかもしれない。
けれども、「生命感」を味わっていただくために、辛いことで疲れることで忘れていることにしてるけど、向き合わなきゃいけない現実をあえて提示するようにしています。
光もあれば影もある。陰陽。表裏。これをしっかり受け止めた上で、「生きるって、やっぱり素晴らしいことじゃないかー」って思えるといいのかな、と。
舞台公演は「生きる」という生命感を感じさせることができる手段の一つだと思います。本公演サウンドシアターのシリーズでは、そのテーマが根底にあります。

次回公演「SPIRITS」はサウンドシアターのようなストーリーものではありません。
しかし第1部・第2部とあわせて観ることでCAの表と裏を見せることができるかと思います。
ぜひぜひご来場の上、お楽しみくださいませ。(最後は宣伝になってしまった・・・)

メーリングリストと情報共有(執筆:斎藤美明)

CAには数多くのメーリングリストがあります。
メンバー全体に送るものから始まり、運営部系統や広報系統、イベント用や練習用、果ては宇都宮旅行メンバー(栃木旅行記参照)のメーリングリストや、3人にしか届かないメーリングリストすらあります。
代表たる私は、数えてみたら14のメーリングリストにアドレスが登録されているような状態でした。(この数字はCA内のメーリングリストだけです。他にもあるんですよね)

年末に電話を買い替えてひと月半。
現在フォルダにあるメールは3千数百通。
これは迷惑メールなど削除してある状態です。
つまりひと月半で4000通以上のメールを取り扱ったということ。
メーリングリストに十いくつ登録していると、それらセクション間を横断する内容のメールが来ることがあるんです。
「運営と技術スタッフと広報に送ります」なんていうメールは3通届くわけです。
そして、そのメーリングリスト全体に返信をかけて送るから、件の数字になる。
これらのメールすべてに対応できているかと言えば、残念ながらそこまではできていない。
あまりの量にメールが埋没することもしばしばあるのです。
「前メール送ったんだけど。。。」・・・どこだっけ?

そうであっても、やっぱり便利なものなんです。
昔は大量のメーリングリストはいかがなものか?と議論されたけど、現在の稼働を見れば、必要性を物語ります。必要ないメーリングリストはメールは流通されないだけですから。
大人数のマーチングバンドさんもそうしてらっしゃるのかしら?
情報共有というのは人数が増えると難しくなるものです。
お互いの顔が見えずらいなぁ、と思うバンドさんがあったらメーリングリストをおすすめします。掲示板コミュニュケーションより同報性が高いですから。
少しは風通しがよくなるかもしれません。
CAではほとんどが社会人。週2・3回しか会えないメンバーはこうやって何が起きているかを知り、CAの活動をともに動かしています。(他愛のない内容も多いですが、メールのない日は本当にサーバーが落ちたかと疑ってしまうくらいです)

そういえば、ライブドアの元社長は一日に数百のメールに目を通していたとか。
大手社長さまはみんなそうなんだろうな。
おれも頑張らなくては。

あとは「代表抜きメーリングリスト」が作られないことを祈るばかりです。
(すでにあったりして!?)

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