05 2020/01

代表・斎藤美明より 新年の御挨拶。

新年あけましておめでとうございます。
いよいよCA20年目の幕開けです。
20年って、流石に長いなと思いますね。
おぎゃあと生まれた赤ん坊が成人してるわけですよ。小学5年生が三十路を迎えてるわけです。新入社員が課長とか管理職になってたり、還暦迎えたご老人が米寿を祝われてる。それくらい長いのです。(・・・老人の例えはいまいち実感わきませんね)

自分も大学も何年か多く在籍しなきゃならなかったり、まぁ、恥も多い人生を送ってきましたが、若気の至りと言うには20年という長すぎる年月を過ごしました。
この団体を長く続けよう!と思っていたわけではないですが、逆に言えば、多くの方々と巡り会い、長く生かされてきたな、と常々に感じております。
運命論とか目的論とか、そんなのクソくらえだとか思っていた高校・大学時代の自分がいるのですが、この年になって、ちょっと自分の運命?目的?とか超越的な存在論を考えてしまいます。逆説的にですが、運命を感じます。

この団体を旗揚げしたのは自分が25歳のときのこととなります。
せっかくなので、自分の経験則のひとつとして、「人間、意を決して飛び込めば何でもできる!」という結果であったことは伝えておきたく思います。
当然、願えば、とか、頑張れば、全て得られるとは限りませんが、何も得られないということはないでしょう。
もし、何も得られないと感じてしまうようならば、高くを望みすぎているか、早くに欲しがりすぎているか、自分の不平不満やボヤく声に、見落としたり見過ごしたりしているのかもしれません。(ということを、ジジ臭く伝えます)
自分もまだ成功者というわけではありませんけど、必ず得られるものはあると思っています。(「苦労」という言葉も含めてですけど)
一番得られて大きな価値があるものは、人との関わりでしょう。
この価値は、非常に大きいと思います。
自分自身、多くの人々とかかわり、何よりメンバーがCAを一緒にやってきてくれたこと、そもそも、その存在に励まされたことは何度も何度もありました。

この場を借りて、関わってきていただいた皆様、そして今、一線でやってくれている現役メンバーに改めて御礼申し上げたいと思います。
どうもありがとうございました。

最後になりますが、創立時・・・つまり20年前くらい自分が書いた2つのメッセージを載せます。そのときの言葉を読み返してみると、まだ青々しく大言を吐く姿は恥ずかしくもあります。
が、この言葉や思いが、CAの原点であり、また、いまは自戒の意味も込めて、再掲させていただこうと思います。長いですが御覧ください。

現在、日本のマーチング団体の多くは、いわゆるアメリカDCIに代表されるような フィールドドリルを模倣している。
この模倣は「いい」意味で使っているのだが、たとえば武道館でおこなわれているショウレパートリーの 随所にそういった模倣が見受けられる。
そして、日本の団体も海外に劣らない作品を提供しつつあるように思う。
ただやはり、それをアメリカの団体と比較するならば遜色もみえてくる。 マーチング先進国との差はでてきて当然であろう。

そのような現状の中、私は日本であっても ショウの先進になりえる方法はないか、ということに着目した。
その結果、特に日本で発達したで あろうステージマーチングショウをより発展させる、という考えを導き出した。
舞台芸術の中に「マーチング」というのは、まだカテゴライズされてはいない。
方針としては音楽劇(ミュージカル)的な要素が多分に含まれるということになるが、あえて 「マーチング」という冠を残した。
というのも、いわゆる旧来の「マーチング」の表現手法も 残していきたい、という思いからである。
無論、現在の当カンパニーのメンバーが少ない状況では 旧来からある「隊形変換」などを使った表現方法を選択できないのは、たしかであるのだが、それ以上に「表現すること」への感覚は鋭敏に磨かれるであろうと信じている。

では、ステージマーチングをどのように発展させるか、ということになると、正直、模索の段階で あるといえる。
マーチングの表現手法にプラスアルファ的に演劇的手法をとりいれているのは、ステージマーチングでは見受けられる。あくまで、「プラスアルファ的」なのだが。

というのも 舞台上でプレイヤーが役者でありきれていないからであろう。
かといって、役者が楽器を吹くのか、楽器吹きが役者になるのか、ということで議論をおこすならば、それはどちらか一方の視点からみてのスタンスに立たねばならないために、自分が望むカンパニーの「在り方」(在りたい姿)から遠ざからなければならない。
のぞむは双方のスタンスの前段階に あるだろう「表現者」であるということを常に念頭に置くこと。
「表現者」であるからこそ楽器を とることも演技をすることも舞踏もすることもありえる。

すべては「表現者」であるゆえに舞台で 生きるのだ。

ただ、矛盾するようだが、当カンパニーが「Marching Ensemble & Drum Corps」と名乗る限り、ショウコンセプトはこれを経由してレパートリーにかわる、ということは忘れてはならない だろう。
このカンパニーの第一志におくことは、「総合芸術としての、舞台芸術としてのマーチングを追究すること」である。
他ジャンルとの、たとえば美術、映像、音楽、ダンスなどとの コラボレイションを考え、プロデュースしていくことが「追究」である。
そうすることで、 新しい何かが生まれてくるのではないだろうか。
もちろん、最初は模倣してしまうようなところも あるかもしれないが、有機的な複合により必ず新しい表現形態が生まれることと信じている。

表現するなにかの先に新しいマーチングが生まれるだろう。
私たちが目指すものが「マーチング」と 言い切れるかどうかわからないが、すべてはすでに始まった。
あとは、この未知なる可能性を 秘めた壮大なる創作行為を楽しもうではないか。

平成12年10月14日 「カンパニー代表より」

このCRAZY ANGELのプロジェクトがスタートし半年以上が経過された。

当初『このカンパニーの第一志におくことは、「総合芸術としての、舞台芸術としてのマーチングを追究すること」である。』 (「カンパニー代表より」より引用)とかかげてあったが、この「総合芸術」という言葉の安っぽさにいいかげんうんざりしている。
昨年末演奏会の折込に行った先々にてマーチングといえば「総合芸術」と冠うってる団体も多く、 「総合芸術もなんてコンビニエンスになったものだ」なんて思ったりしたものだ。
そこには、マイノリティ独特の差別化・区別化による 優越感が生まれているように感じる。
それは、全く否定はしないが、「マーチング」崇拝、そのようなものを感じる。
「マーチング」自体は崇拝するものではない。
崇拝すべきは「己の活動」であるべきであろう。

金にならない事をやる限り、その原動力は「趣味だから」というあくまで人生の2次産物として切り分けた片手間なものとして考え、惰性で行うか、プライドをかけて突き進むかのいずれかであると思ってる。
自分は自分のやってる事を信じて、カンパニーのプライドをかけCAを盛り立てて行きたいと思っている。
安っぽい「総合芸術」なんて言葉は必要ない。
ぐうの音も出ないように観客を楽しませるアクティブな集団に徹底したい。
そのためにすべきことはメンバーにとにかく「楽しむ」ということを 伝えていく事で、メンバー各位が「楽しむ」の追究を各自で厳しく行ってくれれば、と思っている。

こんな小難しそうな哲学を語っている場合ではないのだが、練習中はこんな事あまり話さないから、 たまにはいいとしよう。

平成13年6月11日 「6月11日~徒然に~」

ということで、長々と再掲させていただきましたが、この青臭さに身が引き締まります。苦笑

現時点で既に、CAは社会人のブラスパフォーマンス集団としては、唯一無二な集団でしょう。CAみたいなことをやりたいと思っても、この団体以外に、国内外みても、こんなことをやっている団体はみたこともなく、CAをやるしかない。座って吹くだけでは満足できない人々が集まってくる。
この団体が、今後とも「変わり者」の受け皿であり、「ブラスパフォーマンス」「ブラスエンターテイメント」というジャンルの最先端の発信地であり続けるよう頑張りますので、引き続き、皆様のご声援をお待ちしております。
本年もまた、どうぞよろしくお願いします。

令和2年1月5日
the CRAZY ANGEL COMPANY
代表 齋藤美明

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