- 2007-10-30 (火)
- Ⅲコラム
情操教育(じょうそうきょういく) 「暗記偏重の知識の教育、数学、理科、社会に対して、感情や情緒を育み、創造的で、個性的なこころの働きを豊かにするための教育、道徳的な意識や価値観を養うための教育」 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
とある仕事で、学校の施設を稽古場として借りているダンスカンパニーの稽古に伺った。そこは、広さで言えば8m×20mくらいの空間で、高さはあまりないのだが、かなり広い。きっとそこでは「全校集会」的なものや「お遊戯」などが繰り広げられているに違いない。ピアノがあり、音響設備もラックシステムで置いてある。なかなか、いい場所で稽古をしていると思ったのだが、大変にがっかりしたことがあった。
それは、この音響システムに端を発したことであった。
システムラックに収まっているこの一品。
音を出してみて気がついたのだが、グライコ(グラフィックイコライザー)がついていない。グライコとは、いくつかの周波数帯域ごとに分かれている「つまみ」を調整することによって、増幅させる周波数帯を変化させる。そうすることで音質をコントロールすることができるという装置。
僕はあまり音響に詳しくないが、ここに置いてあるシステムのバランス設定は、(たぶん)低音域と高音域を極端にカットしている。イメージで言えば、「布で口をふさがれた声」というかんじ。
なぜこういう設定にしているのか理由の推測は容易。
一番の理由は、「この場所が図書館に隣接している」から。
スピーカーはきちんとしたメーカーを使っているのに、音の臨場感が全くない。色彩感もない。体を震わせる空気の振動もなければ、心を震わすビート感もない。
正直、この音を聞いて怒りすら感じられたし、失望もした。
なぜかと言えば、子供たちはここで集会なりお遊戯なりしているとき、大人たちはあんな音を流しているんだと想像したから。このことが想像するだけでも本当に不愉快。本当に。
こんな音を「音」として聞かせることが子供にとっていいのか?
いい音やいい音楽は「音楽室」だけで聞かせていればいいのか?
特に教育の現場ならば、音楽教室とか芸術鑑賞会とかやる以前に、日々ふれるものに注意を払わないといけないのではないか?
教育論などに関しては門外漢であるが、小学校や中学校で吹奏楽を教えている者としても「これが教育なのか!?」と残念に感じる。
ただでさえ「リアル」が喪失されている、この社会。
こんな不自然な音を聞かせ続けたら、どんな人間になってしまうのか?
私は正直、その音を聞き続けるのは気持ち悪くてしょうがなかった。
けれども、それをずっと聞いて育っている子供たちは、気持ち悪く思わなくなるのだろうか?
香辛料の効いた食べ物を食べ続けると味覚が麻痺してくる。
味の変化のない食事を続けると味覚は鈍化してくる。
聴覚・視覚も同様だろう。
何か「いいもの」を観たり聴いたりすることは、人間の感覚を鋭敏にするものであり、日々の「生命感」を充実させることにつながるであろう。
今日、仕事の行きすがらカラスの鳴き声が聞こえてきたときに思った。
あの学校の「音」でモーツァルトを聞くくらいなら、ビルの谷間に響くカラスの声を聞くほうが素晴らしいと。
失われつつあるリアル。
違う。
「薄まりつつあるリアル」に訂正しよう。
先達のものはキチッとリアルを提示しようじゃありませんか。
そのことが「情操教育」の前に必要なことだと私は考える。
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